土曜日, 12月 14, 2024

遺産相続のとき、妹と対立しました

 妹と弟がいました。

先に父が亡くなった時、妹から連絡があり、弟が、怒っているから、遺産関連をものを誰かに預けたいと。

そのころ、父は肺気腫で出かけられなくなり、弟に渡す金を妹が代わりに渡していたけれども、渡すべき金を妹がネコババしたと言って、怒っていると。

それで知り合いの弁護士を紹介し、そこにすべて預けました。

弟は、その弁護士のところに押しかけたり、懲戒請求を出したり散々迷惑を掛けました。

その後、母が亡くなった時は、預かっている弁護士では、私と妹の仲裁ができないとのことで、しばらく、数年もほったらかしになっていました。

それで、妹が弁護士を立てて、調停になりました。

その時、妹の主張に驚きました。

妹は昔から、嘘つきと家族の間では、思われていましたが、弁護士を通じて、芋生野と主張を見たとき、愕然としました。

私が、両親のお札を抜くから、来ないように言われていたと、主張していたのです。

夫が住宅ローンを払ってましたが、支払いが滞り、サラ金などもあって、債務整理になった時、弁護士さんに、できるだけ金を集めるように言われて、100万円借用書を書いて、両親に借りました。

また、実家を売った時の、確定申告をやりなおして、120万円もどしてもらうようにしてあげました。母の手帳をすべてチェックしてかかった費用をエクセルに入れて、修正確定申告をしたのですが、大変でした。その時20万円もらいました。そういうことはありましたが、お札を抜くなんてしたことはありません。


私は、父と意見の食い違いがあったため、母のところにだけいってました。

介護の地下の母の病室だけに通ってました。ばったり父に会ったとき、転んで、股関節を骨折して手術したと話を聞いても、ふうーんと言って、母のところに行きました。

ま、妹や弟は生前多額の金品を受け取ってました。

妹はアメリカ留学させてもらいました。弟は司法試験受験後、ずっと養ってもらってました。

その記録を、手元にある記録から集めたところ、それぞれ2000万円くらいもらっていることがわかり、残る遺産のすべてを私がもらってもいいはずと思ったのですが。

結局、弟の分は妹がもらい、3等分でした。

水曜日, 12月 11, 2024

あの有料老人ホームはうそもつきました

 両親が二人で入っていた有料老人ホームですが、先に父が亡くなりました。

その時、母が認知症だったので、財産管理の弁護士を立てなければいけないと、言われました。

そして、そのとき、母の状況について、説明する書類を見たとき、驚きました。

私を悪者にしていたのです。

母を退院させたのは、私であると書いてありました。

このままでは、死んでしまうと言って、父が退院させたのに、私が、退院させたと。

しかもその時期は、実際の時期よりもずっと長く入院していたことになっていました。

私は、両親が有料老人ホームに入所するときの保証人に、なりませんでした。

なってくれと父に言われましたが、断りました。

なぜかというと、そのころ、父は、生活能力に問題がある弟に、こずかいをやっていました。

それなのに、私に対して、「お前は、俺にこずかいをくれてもいいんだぞ」と言ったのです。

このような父の保証人になれば、大きな負担を押し付けられる可能性があります。

私のほうは、住宅ローンを抱えて、夫と子供との生活で四苦八苦していました。

父は、年金も通常以上の金額を得ていました。

我が家よりもずっと余裕がありました。

そういう状態で、保証人になることはできませんでした。

すると、父は、妹の夫に保証人を頼んだのです。

そして、妹の夫は父が亡くなる前年亡くなっていました。それで妹が保証人になっていたのです。

そういうわけで、父や母のなくなる時、私は、まったく口をはさむことができない状態になりました。


金曜日, 11月 29, 2024

母が亡くなった時のことを書いてありませんでした

 母は、薬漬けにされたあと、7年くらい生きていました。

その後の話、特に亡くなった時のことを書いてありませんでした。

実は、非常にショッキングで、書く気にもなれず、忘れたいと思う気持ちもありました。

それは、今から11年くらい前のことです。

有料老人ホームから呼び出されて、誤嚥性肺炎になったので、心づもりをしてほしいという話。

しかし、食事がとれるかどうか、試してみてほしいと言って、試したら、食べられたので、食事再開しますという話だったと思います。

しかし、しばらくして母のところに言ったら、また誤嚥性肺炎で、食事を止めて、一日500㏄の点滴だけになったという。

目がくるっと上向いて、白目をむきそうになる。

誤嚥性肺炎と言っても、血液に細菌が検出された、熱が出たというだけ。

医者は、泌尿器科の医師一人だけ。

私は、誤嚥予防のため、ゼリーをもっていっていたので、それを食べさせた。

アサイーゼリーだったと思う。その後、アイスクリームなども喜んで食べた。

しかし、一筆書かされた。何かあったら、責任を取りますと。

私の主治医に相談したら、その状態は、もう手遅れだという。

点滴で生命を維持するには、中心静脈栄養という方法で、一日2000㏄くらい入れなければ、だめだという。

私は、それから毎日通った。

2週間くらいたったとき、すごくがつがつしているのを感じた。

食べたと思ったら、すぐに口を開けて催促する。

あっという間に、持っていたゼリーを食べ終えそうになった時、ぱっと私の顔を見て、目をつぶってしまった。ナースコールを押したら、ナースが、吸引を始めた。

前日から、点滴がさせなくなり、点滴もやめていたという。よほどのどが渇いていたのだろう。

ここでは、誤嚥性肺炎という診断は、死刑宣告だったのだ。

金曜日, 10月 25, 2024

老人保健施設もいろいろです

 最初に、急性期病院から移った老人保健施設は、言語聴覚士がいて、誤嚥性肺炎予防の重要性を、セミナーを開いて教えてくれました。

そのため、有料老人ホームにいた母が誤嚥性肺炎と診断された時の待遇の差について、非常に驚きました。

母は、誤嚥性肺炎と診断したのは、泌尿器科の医師で、血液中に細菌が発見されたという理由で、食事抜き、一日500㏄の点滴になりましたが。。

老人保健施設では、病院に転送し、治って帰ってきていました。

リハビリもしてくれていた老人保健施設でした。

ずっといられないということで、別の施設に移らなければならないといわれました。いろいろ探しましたが、休日に探すのも大変だったので、有料老人ホームのショートステイというところを、一か月6万円くらいで済むかもしれないと、説明されて、移りましたが、実際には、月20万円かかりました。

そして、通院は、私が、介護タクシーを使って、連れて行きました。

しかし、そこで、2か月くらい過ぎたときだったと思いますが、意識喪失して、救急搬送されたという連絡があり、慌てて、病院に駆けつけると、暴れていて、病院の人が困っていましたが、私が声をかけると、暴れるのをやめたのです。

失語症だけれども、私の声は分かるのでしょうか。

それで、そのあと、完全看護なんですが、付き添いで、病室に幅70センチのベットをおいて泊まり込むことになってしまいました。

頸椎動脈が一時的になんとかかんとか、という診断名でよくわからなかったのですが、確かなんかそんな病名だったと思います。

その病院に2か月くらい入院し、そのあと群馬県のリハビリテーション病院に移ることができました。

ここは、すごい病院で、毎日、3つのリハビリがありました。言語療法、運動療法、作業療法だったと思いますが、自分の名前が書けるまでに回復しました。

しかし、そこも長くはいられず、移る先を探しました。

そして、そのあとに移った老人保健移設が、最悪でした。

言語聴覚士がいるはずでしたが、気づいたときは、退職してました。そして、最初に毎日血糖値を測定すると説明した相談員は、やめてしまっていました。

そして、そこで、高熱を発しているとのことで、救急搬送されたと、朝の5時ころだったと思いますが、電話がかかってきました。

搬送先は、家の近くだったので、歩いて、向かいました。

ICUに入っていました。管につながれて、多臓器不全で2,3日の命と言われました。

救急車の中で、何回もけいれんを起こしたそうです。

それまでの、血糖値などの数値を調べたところ、毎日血糖値を測るはずの老人保健施設では、血糖値どころか、グリコヘモグロビンも一度も測らず、また、薬もやめてしまっていました。

老人保健施設では、医療費について保険適用できないそうです。最初に入っていた老人保健施設では、大きな病院系列でしたので、医療設けられていましたが、最後に入ったこの老人保健施設は、小さな病院付属の老人保健施設でした。

だからといって、一度も測定もしないなんて、健康人でもありえないですし、薬も飲ませないなんて、どういうことでしょうか。

その後、呼吸器、肝臓などの数値が少しずつ改善し、最後には、透析も不要になりました。

そして、別のリハビリ病院に移ることになりました。透析を続けていたラバ、透析ができる病院に行かなくてはならなかったのですが。

透析不要になったので、リハビリ病院に、移れました。

リハビリしてよくなるかと思ったら、体を起こすと、血圧が上がるので、できないといわれました。

寝たきりのまま、1年の間お世話になりました。


金曜日, 10月 18, 2024

誤診だと思って、弁護士に相談しました

 「テレビをつけて」と言ったのに、つけられないから、おかしいと次女が言ったので、日曜日に通院している病院に救急搬送してもらいました。

しかし、その時、うろうろとうろつきまわる夫を見もせずに、パソコンばかり見ていた医師は、CTを取っただけで、アルコール性精神病と診断し、系列の精神病院に明日の朝連れて行くように、と言いましたが、夫は嫌だといい、徹夜で病院にいる羽目になったので、家に帰りました。1週間後に別の病院に、連れていき、脳梗塞が進行中だといわれて、急遽入院したのです。

最初の病院で誤診されたわけです。

最初にちゃんとした診断がされていれば、ここまで症状が悪化しなかったはず。

そう思って、医師と弁護士の資格を持つ弁護士を探して、相談しました。

レントゲン写真とか、言われたものをそろえて、弁護士事務所に行ったところ、見落としとは言えないといわれました。

後日、弁護士一家に育ったという知人に、そのことを話したところ、その弁護士が、病院に話して、お金をもらってもみつぶしたのではないかと言われました。

医療過誤訴訟は、難しいとは思ってましたが、まさかそんな話があるとは。。。

確かに、最初に見てもらった病院に、資料をもらいに行ったところ、どこの病院にいるのかと聞かれましたが、後日、診断書が必要になり、もらいに行ったところ、入院している病院名を聞かれませんでした。

それでも、もう話が通じなくなってしまったことは、そばにいるのに、話ができないというつらい状態になりました。

急性期病院から、リハビリ病院に転院するものなのだそうですが、リハビリでよくなる見通しがないとのことで、受け入れてくれるリハビリ病院はなく、老人保健施設で、リハビリをしてくれるところに移ることになりました。


土曜日, 10月 12, 2024

夫の介護についていろいろありました

 夫は、糖尿病、痛風、高血圧さらに、睡眠時無呼吸、脳梗塞合計3回など、さまざまな病気を経験しながら、お医者さんに、酒をやめなければ、命の補償はしないといわれても、死んでもいいから酒を飲みたいと、言って、最後は、寝たきりで、介護病棟に1年半入院し、痛そうな褥瘡も抱えながら、亡くなりました。

病院や、老人保健施設にお世話になりました。

老人保健施設や、長期ショートステイなどでは、色々な施設がありました。

最初に、毎日血糖値を測りますと言っていたのに、高熱を出して、救急搬送された後、一度も血糖値や、グリコヘモグロビンすら測定していなかったこと、薬も飲ませていなかったことが判明した老人保健施設がありました。

そこは、最初そのように案内してくれた相談員が辞めてしまっていました。

病院に併設されていた老人保健施設だったのに、言語聴覚士も最初はいたのに、やめてしまっていたことがわかりました。

また、有料老人ホームの長期ショートステイというところでは、もっと安く済むかと思ったのに、月20万円もかかり、食事のカロリー制限が全くされていなかったことが、救急搬送されてから分かったことがありました。

それでも、自宅で介護することを考えれば、感謝するしかないという事情もあり、文句も言えないままでした。

病院に救急搬送されるたびに、経過を話し、順番に事情を話していくことになりましたが、病名がわからないまま、自宅介護していたとき、次女に任せて、外出していた時、トイレでうんちまみれになったと聞いては、まだ仕事をしていたので、介護休暇を取るにも限界があるため、途方にくれました。

テレビをつけてといってもつけられない、なんかおかしいと次女に言われて、病院につれていったとき、アルコール性精神病だから、系列の精神病院に入院させるように、と、誤診されました。それは嫌だと本人も言うので、自宅に帰って、1週間くらい介護休暇を取って面倒を見ていたのですが、その間、往診も頼んだのですが、大きな病院に見てもらったほうがいいといわれて、別の病院に行ったところ、念のため,MRIとりましょうと言われて、撮ったところ、車いすに座るように言われ、緊急入院となりました。脳梗塞が、侵攻していたのです。

結局、その病院では、拘束衣を着せられても、マジシャンのように抜け出してしまうといわれて、すみませんと謝りながら、2か月も入院させてもらいました。

失語症、失行症と言われました。

一週間家にいた間に、最初はメールも打てたのですが、どんどん進行していき、最後は、鉛筆を持たせると、たばこのようにくわえるようになっていました。

ま、そんな状態でしたが、リハビリをしてもらい、ご飯を手づかみでなくお箸や、スプーンで食べられるようになりました。

水曜日, 9月 25, 2024

夫の介護も終わりました

 母は、有料老人ホームだったけれども、夫は、自宅介護になるかと思いましたが。。。

母とは、全く違う経過をたどりました。

共稼ぎだったので、二人分の年金をもらえば、老後も安泰と思っていたのですが、先立たれてしまいました。

なんとか、やりくりして、生き延びでいます。

夫は、6年前に亡くなりました。

糖尿病、痛風、脳梗塞は、3回、と、大変な日々でした。



金曜日, 3月 01, 2024

ずいぶん放置してました

 母が亡くなってから、約10年後夫が亡くなりました。

夫の場合は、私がすべて決定できるので、十分なケアをしていただきました。

母の時とは大違いで、誤嚥性肺炎の注意とか、リハビリとか本当に至れり尽くせりの介護をしていただき、感謝に堪えません。

そこでわかったことは、やはり母の介護のひどさでした。

そして、先日スマホに残っていた母の写真が突然表示され、その顔の唇の周りに殴られたような血の跡があったことに気づきました。

しかし、介護にあたる職員数はどんどん減っているそうです。

私も老後に入る時期になりました。

寝たきりなどにならずに、認知症にもならずに、過ごしたいものです。