木曜日, 2月 16, 2006

読売新聞記事からー嚥下障害の話

嚥下機能低下 高齢者の肺炎原因
「食事中むせる」要注意
 高齢者の命を奪いかねない恐ろしい肺炎。インフルエンザなどから発症するケースと共に、高齢者でよく見られるのが、食物や水分を飲み込む「嚥下(えんげ)機能」の低下から起こるケースだ。高齢者の肺炎の主な原因と考えられるこの「嚥下性肺炎」を防ぐには、機能低下の早期発見が欠かせない。(佐藤光展)
 私たちは通常、水分や食物を飲み込む動作を無意識に行っている。しかしこの時、舌やのどなどに意識を巡らすと、実に複雑な動きをしているのが分かる。
 口の中でかみ終えた食物は、舌の動きで奥に押し込まれる。すると、口の奥の軟口蓋(なんこうがい)と呼ばれる部分が鼻腔(びくう)につながる穴をふさぎ、さらに肺につながる気管が喉頭蓋(こうとうがい)で蓋(ふた)をされ、食道の入り口が開く。
 この一連の動きがスムーズに行われることで、水や食物は胃に向かう。もし、これらの動きにかかわる神経や筋肉が障害を受けると、口の中の水や食物、唾液(だえき)、あるいは胃や食道から逆流してきたものが気管に入る「誤嚥(ごえん)」を起こしてしまうことがある。
 嚥下機能の低下は、まず次のような症状として表れることが多い。
 〈1〉食事中によくむせる。 〈2〉せきが多く出る。 〈3〉唾液が飲み込みにくい。 〈4〉のどがごろごろ鳴る。
 食事中にむせる反応(せき反射)は、誤って気管に入った異物を外に出すための正常反応ともいえる。しかし、機能低下がさらに進むと、このような反応が出にくくなり、就寝中に唾液が気管から肺へと流れ込む「不顕性誤嚥」を起こしてしまう。
 口の中には、黄色ブドウ球菌や緑のう菌、歯周病菌など、さまざまな菌がいる。これらの菌は口の中にすみついているだけで、健康であれば通常、肺炎の原因になることはない。だが、嚥下機能の低下で、多量の菌が唾液と共に肺に流れ込み、さらに持病による免疫力の低下などが加わると、肺炎を発症してしまう。
◇     ◇
 ふだん健康に暮らしている高齢者では、嚥下機能の低下は自覚しにくい場合もあるが、自宅で簡単に確認できる方法がある=イラスト。「水飲み試験」では、10ミリ・リットルの水を飲み終わるまでの時間や、むせの有無などで判定できる。これに、30秒間に可能な唾液の飲み込み回数をみる「反復唾液嚥下試験」を組み合わせると、より正確に機能の状態を知ることができる。
 機能の低下が疑われる場合は、まず耳鼻咽喉科を受診し、のどの炎症や腫瘍(しゅよう)などの病気がないかを確認することが大切だ。
 そこで病気が見つからなくても、安心はできない。細かな脳血管の詰まりが、嚥下機能の低下につながっている可能性もあり、神経内科で脳のMRI検査を受けることが勧められる。
 肺炎の治療にあたる横浜市立大病院呼吸器内科部長の金子猛さんは「嚥下性肺炎は通常の肺炎より重症化しやすく、いったん治っても繰り返すことが多い。高齢者の肺炎は、嚥下性肺炎の可能性があることを念頭に置き、診断と治療にあたることが重要」と話す。
 嚥下性肺炎を繰り返す場合、せき反射を増やす「ACE阻害剤」を服用し、嚥下機能を改善させる治療も試みられている。
 しかし、たとえ誤嚥を起こしたとしても、口の中の菌量を減らしておけば、肺炎にはつながりにくい。歯周病などの歯科治療と日々の歯磨きで、口の中を清潔に保つことが、怖い肺炎を遠ざける第一歩といえそうだ。
自宅で簡単チェック
水飲み試験

◇方法
 〈1〉コップに水10ミリ・リットルを入れる。 〈2〉いつもと同じように水を飲む(1回で飲めない場合は2回以上に分けてもよい)。 〈3〉この時、飲み終わるまでの時間を測定。むせの有無をみる。
◇判定
正常 10秒以内に、むせることなく飲むことができる。
異常の疑い むせることなく飲めるが、10秒以上かかる。または、むせることはないが、2回以上に分けないと飲めない。
異常 1回、あるいは2回に分けて飲んでもむせることがある。または、むせることがしばしばで、全量飲むことが困難。
反復唾液嚥下試験

◇方法
 〈1〉口の中を唾液で湿らせ、飲み込み動作を行う。唾液が出にくく、口の中が乾いている時は、水で口をすすいでから行ってもよい。 〈2〉この時、のどの隆起(のど仏)に指をあて、動きを見る。のどが「ごっくん」と動く正常な嚥下では、隆起が指よりも上に移動し、もとに戻る。この回数を記録する。 〈3〉30秒間で何回、飲み下せるかを測る。
◇判定
異常 3回以下が異常と判定される。
(金子猛さん監修)
(2006年1月23日 読売新聞)

読売新聞記事からーパーソンドケア

人格尊重 認知症ケア…「パーソンセンタードケア」始まる
急がせない・無視しない・「もの扱い」しない
 認知症(痴呆(ちほう))ケアの世界に、新しい風が吹き始めた。パーソンセンタードケア(その人を中心にした介護)と呼ばれる考え方だ。イギリスで生まれ、欧米各国に広まった。日本でも導入が始まっている。(斎藤雄介)
 群馬県沼田市の老人保健施設「大誠苑(たいせいえん)」では2004年春、入居者が一斉に食事していた大食堂を2か所に分けた。少人数に分けることで職員の目が行き届き、ゆったりした雰囲気になった。
 パーソンセンタードケアの考えに基づく「認知症介護マッピング(その人の状態の地図を作るという意味)」という評価を受けた際、食事時のケアに問題が指摘されたためだ。
 入居者の口に食べ物が残っているのに、職員が空いた食器を下げたことが、「急がせた」と指摘された。また、職員が食器のふたを取って、食器カゴに投げ込んでいたことも、「不必要に大きな音を立てた。入居者の自尊心を傷つける可能性がある」。
 パーソンセンタードケアの考えでは、「急がせる」「できることをさせない」「無視する」「もの扱い」などの行為が認知症の人を傷つけていると考え、特に良くないこととして記録される。
 「がく然とした」と、施設長の田中志子(ゆきこ)さんはいう。「私たちのどこかに『この人たちはどうせわからない』という意識があったのだと思う。家庭でもレストランでも食器を投げたりしないのだから」
 職員は改善方法を話し合い、不必要な物音を立てず、走り回らずにケアをすることにした。静かに、ゆっくり食事ができるようになった。
 頻繁にナースコールを鳴らす女性が職員から無視されていたのも問題になった。「用もないのにナースコールを鳴らす困った人」というのが職員の意識だった。
 しかし、田中さんは、その女性が自力では排便が難しいことに注目した。「ナースコールで便意を訴えていたのを、職員が理解しなかったのではないか」と推測し、「最低、1日1回はトイレにすわる」などの改善を行った。その結果、トイレの不安が薄れ、訴えは減少した。
 パーソンセンタードケアは英国ブラッドフォード大学の故トム・キットウッド教授が提唱した。パーソンセンタードケアを実現するために開発された手段が「認知症介護マッピング」。訓練された評価者(マッパー)が、お年寄りの行動を5分ごとに6時間以上にわたって観察。その様子や職員のかかわりなどをもとに、お年寄りの状態を記録するのが大きな特徴だ。
 日本でのパーソンセンタードケア導入の窓口になっている認知症介護研究・研修大府センター(愛知県大府市)では03年度から研修を実施しており、すでに58人のマッパーを育てた。イギリスで研修を受けた日本人も10人以上いるという。
 「お年寄りの側から見ることで良いケアを考えるヒントを提示し、職員の応援をしたい」。大誠苑でマッピングを行った特定非営利活動法人「シルバー総合研究所」(東京)の桑野康一・主任研究員は話す。
 お年寄りの立場で考える 縛らない・薬使わない
 厚生労働省から委託され認知症の研究を行う「認知症介護研究・研修東京センター」の長谷川和夫センター長は、「パーソンセンタードケアとは、その人らしさ、人格を尊重するということ。認知症の人を、個人として、人間として見ることです」と言う。そのためには、医学的、身体的症状だけを見るのではなく、性格や趣味、ライフスタイル、個人の歴史などを知ってケアを行うことが大切だと話す。
 人はだれでも、なぐさめ、仲間、自分の役割などを求めている。「認知症の人もこうした欲求が満たされれば、落ち着いて居場所を見いだすことができます」
 認知症介護研究・研修大府センターでマッピングの導入に当たっている水野裕・非常勤研究員は「認知症介護マッピングは認知症の人の側に立ってケアを考えるためのきっかけになり、パーソンセンタードケア導入の手がかりになる」と説明する。
 水野さんが老年精神科部長を務める一宮市立市民病院今伊勢分院(愛知県)でも、パーソンセンタードケアの理念に基づいて「縛らない、薬を使わない」ケアを実現してきた。
 他の施設や病院で縛られていたという患者が来ても、自由にして様子を見ると落ち着きを取り戻すことは多い。
 「認知症は医学的には改善しないことが多い。しかし、その人らしさを大事にすることを考えれば工夫のしがいがある。職員のアイデアも出てくる」と話す。
 [etc・えとせとら] 人間関係 取り戻す
 パーソンセンタードケア関連の本が昨年、日本で相次いで出版され、注目されている。
 家族介護者やボランティア向けに実践的に書かれた「認知症の介護のために知っておきたい大切なこと」と、理論を説明した「認知症のパーソンセンタードケア」は筒井書房(東京)の発行。また、実際のケア事例を集めた「パーソン・センタード・ケア」が「かもがわ出版」(京都市)から発売された。
 「認知症のパーソンセンタードケア」を翻訳した高橋誠一・東北福祉大教授は「認知症になると、何もわからない人と見なされ、人間関係を失ってしまう。周囲との関係を取り戻すことが必要だとキットウッド教授は考えた。具体的な方法論も書かれている」と説明する。
(2006年2月15日 読売新聞)

医学は科学ではないらしい

「 医学は科学ではない 」という本がある。米山公啓という医師の本である。
その書評を以下に引用する。



私たちは病気やケガのとき、医師からちゃんとした科学的根拠にもとづいた治療を受けていると思っている。だが必ずしもそうではないらしい。
 たとえば患者に与える薬を選ぶとき、医師は「使いなれている」「製薬会社の営業マンにすすめられた」「値段が安い」「教授や上司の指示」といった、およそ科学的でない理由で決めることが多いという。だから、同じ高血圧でも医師によって薬は別々、もし医学が科学的に完成されているなら、処方される薬はどんな医師でも同じであるはずだ。
 医師で、かつて医大の助教授でもあった著者は、医学は科学的な根拠に基づき体系的に構築された学問ではない、という。物理学や化学では、ある理論に基づきどこかの実験室で実証されたことは、理論が正しければ世界中どこでも再現できる。医学にはそういった普遍性、法則性がない。対象である人間が、一人ひとり皆違うからだ。つまり、医学は常に高い精度で同じ結果を出す科学ではないのだ。
 加えて実際の医療は、科学的でない多くの制約の中で行われている。大学病院の若い医師は、医局や教授の意見を無視してまで自分が正しい治療を行うことは難しい。開業医でも学会や医師会の方針を無視できないし、病院経営という経済的足かせもある。医療の環境は、技術も制度もまだまだ科学というには程遠い。
 それでも近代医学は解剖学、病理学、組織学などの研究を踏まえ、診断や治療の科学的根拠を求め続けてきた。いくつかの疾患については統計学的疫学を基に、客観的な治療方法の基準もつくられている。しかし、人間の持つ遺伝子はみんな違う。病気は、人間の体と病原菌やがん細胞などとの相互関係によって起こる。だとすれば、平均値を基にした医療では、それぞれが違う患者の身体的個性に対応できない。遺伝子や生活習慣が違う人に同じ薬を同じ量だけ押し付けて、それがデータに基づく科学的方法と錯覚しているのが近代医学だ。
 何年も患者に接してきた医師は、臨床の現場ではすべてを科学で解決できないことを知っている。あいまいで複雑な人間の体は、データだけではとらえきれない。プラシーボ(偽薬)は、まったく薬効のないはずのものが薬効があるように人体に作用することだが、効果があるということは体の中の細胞や体内物質が変化しているということである。実際にもプラシーボで脳内に麻薬様物質が分泌され、痛みが軽減していることが観察されている。つまり人間の体は、考えるだけで薬様物質を生みだすことさえできるのだ。近代医学の立場では説明できなくても、病気が治るのであればこれも立派な治療といえる。
 遺伝子工学の急激な発展や電子工学を利用した精密な検査機器の開発で、人体データは細胞、遺伝子レベルまで網羅できるようになった。しかし、それで患者を客観的に把握し、人体の仕組みの本質がわかったと錯覚してはならない。患者の顔も見ないで電子カルテで病気を把握しようとする若い医師は、医学のある部分を見落としている。それでは、患者の個性を消してしまうということに気づいていない。
 実際の診療現場は、もっとあいまいでアナログ的なものなのである。医学には非科学的な部分が存在し、限界もある。あいまいさこそが医学の本質だということを理解し、西洋医学以外の存在も肯定する姿勢こそ医学には必要ではないだろうか。医学は科学ではないということに気がつけば、患者も医学に何をどこまで求めていいのかがわかる。新しい医療の方向はそこから見えてくるはず、と著者は提言している。
(松田 博市)